当時、極もんは兵庫県にある大学の3年生でした。連休明けの1月17日(火曜日)は後期試験に先駆けて、1科目だけ授業時間内に試験が行われるということで、前日は深夜2時まで勉強していました。そのあと、寝てから数時間経ったところで、激しい揺れに襲われました。最初はゆらゆらとした横揺れで、すぐに収まるだろうと思いましたが、どんどん揺れに加速が付き、底から打ち上げるような縦揺れも混ざり出しました。起き上がるのは危ないと思い、布団の中にうずくまりました。その間、家が揺れで響く音や部屋の物が落ちる音など様々な音が聞こえてました。
地震が起きた午前5時46分は起床予定の約10分前でした。揺れが収まって、テレビをつけようとして初めて停電していることに気づきました。停電はすぐに復旧し、テレビをつけるとある局では真っ暗の中、音声だけで注意を呼びかけていました。照明がつかなかったそうです。自宅は大阪なので被害はなく(大阪でも被害があった所もあります。)、テレビでも梅田でビル屋上の工事用クレーンが倒れたというのが、最大の被害でしたので、まだ試験を受けなければと、大学へ行くつもりで朝食を食べ始めました。
しかし、実際はそれどころではなかったのです。神戸の震度6(後に震度7に変更)は回線の損傷により、伝達できなくなっていて、国やマスコミが神戸の被害に気づくのに時間が掛かっていました。テレビが神戸を映し出したのは午前8時台に入ってからで、これを見てから恐怖心が急激に高まりました。通学に使っていた鉄道路線上には2ヵ所で陸橋が落下し、列車の脱線も起こっていました。もし、通学時間と地震が重なっていたらと思うとゾッとします。
大学がいつ再開するか判らない日々がずっと続きました。最大余震が来るとの情報におびえながら、報道特別番組ばかり見ていました。余震は何度もありましたが、さほど大きなものはありませんでした。この頃、地震の時、地響きが走ってくることを体験から憶えました。今でも地響きがすると地震ではないかと思うことがあります。2月下旬になって、後期試験中止との手紙が大学から届き、試験の代わりに多くの科目で郵送でのレポート提出が課せられました。後に判ったことですが、地震当日受けるはずだった試験の教科を教えていた先生は自宅の倒壊により亡くなられていました。大学関係者で唯一の死者でした。
未曾有の被害とあって、春になってもテレビは全国放送でも連日、震災報道を続けていました。レポートの締め切りは3月20日消印有効でした。レポートを書くのは大変で、前の日から徹夜で最終仕上げに取りかかっていたところ、朝になってラジオから東京の地下鉄で異臭騒ぎとの情報が入ってきました。あの大事件が起きたのです。事件の報道が気になりながらも、レポートは夕方まで掛かり、出すことができたのは郵便局が閉まるギリギリの時間でした。この日からテレビは震災の報道から事件の報道に一変しました。これにより、本来ならもっと全国に伝え続けられたはずの震災報道が途切れてしまったことは大変残念です。
現在の震災報道については関西と全国ではかなりの温度差を感じます。関西のニュースでは毎年この日の1週間前から震災の特集が放送されますが、全国放送ではほとんど取り上げられません。地震が起きた1月17日の午前5時47分には全国放送でも各局で追悼会場からの生中継を行われていますが、その時間が過ぎるとすぐに他の話題に変わってしまいます。当日だけでも、もう少し大きく取り上げるべきではないでしょうか。
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